山を彩る紅葉も次第にその葉を落とすこの頃。
私の中には静かに焦燥感が滾っていた。
その焦燥感の原因は、考えてみるまでもなく自分の中に刻み込まれている。
周囲の人間は着々と自分の進むべき道を定めてゆく中で、私には今のところそういった話は特にない。
なぜか。
その理由も自分がよくわかっている。
思い返すのは今年の3月。
就職活動が解禁されたはいいものの、今とは真逆の不安感から何に触れるでもなくゆるゆると時を過ごした。
その不安感がひっくり返ったのは9月のこと。
夏休みの間から、すでに少しずつ説明会を回ったりはしていた。
だが、気がついたのだ。
もう遅いのではないかと。
無論、この時期になっても募集をかけている企業など山ほどある。
まだ間に合う時期なのだが、私が言いたいのはそういうことではないのだ。
結論から話すと、自分に適した開始時期を逃しているのだと感じてしまった。
大した実績も資格もない私には、時間しかなかったはずなのだ。
だが、その時間すら全く別のことに費やすばかりだった。
いや、費やしてすらいない。
他のことに時間を使う暇に、十分にその時間はあったはずなのだ。
これは甘さか。
それもある。
だが、やはり何をしたらいいのかわからないという感情が大部分を占めていたのが正直なところだ。
学校は十分な説明をくれたはずだった、それなのに自分には全く入ってこなかった。
当事者意識もあった。
来年には社会に出るという心構えはしっかりできていたはずだった。
ならばなぜ、学校からの手助けは響かなかったのか?
それもよく分からない。
分からないから、今こうなのだ。
私に今できることは、それでも足掻くことのみだ。
そう、後退は許されない。
甘い考えなど許されないのだ。
いや、例え自分がその考えを許したとしても、周りが許さない。
家族が、友人が、世間が。
新卒で就職できない奴は、ただの出来損ないでしかない。
この新卒という最強のカードは、今年限りで有効期限が切れてしまう。
そのカードを失った瞬間、間に合わなかった人間はその瞬間に社会不適合者の烙印を押されていると言っても過言ではない。
意欲だけでは就職できないのだ。
現に、私は意欲だけあって実績が全く伴っていないということが全てを物語っている。
企業はそんな人間を選ぶだろうか?
どの業界も人手不足が叫ばれていながら、結局は選り好みができる立場であり最終的にこちらを選ぶ権利を持つ立場なのが会社だ。
ならば、必要のない人材は決まっている。
技術を持たない人間だ。
最近でこそ改善されてきているものの、やはり理系至上主義が日本人には根付いてしまっているのが現状だろう。
根っからの文系である私にはまっこと不利な話である。
だが、今から文系から理系に変われるだけの頭もない。
結局、自分には不利な社会だということを痛感してしまう。
そんなやりようのない感情を抱えつつ、今日もバイトを終えて帰ってきた。
私の心の救いは、いつも変わらず私を出迎えてくれる友人たちだけだ。
非常に不安定さを覚えるが、私は至って心身共に健康である。
ただ、こういうことをたまには喋ることも大事だ。
それでも誰かにこういったことを話すのは少し苦手なだし、ただの弱音なのでこういうところで語るに留めておく。
長々と申し訳ない。
タイトルバックのストフリを置いておく。